“無意識を隠蔽するために、それを暴き立ててみせること。それはあたかも小さな嘘を告白することが大きな嘘を隠蔽するような効果をもたらすだろう。そしてこのような防衛は、いまや至るところに見受けられる。精神分析以降の時代、われわれは新たな防衛機制としての「自己分析」を手中にしたのだ。自らの無意識を語ってみせることで、本来的な欲望のありかを隠蔽すること。このときわれわれは、しばしば隠蔽するという意図すらなくして、それを行うのである。”
—フレーム憑き/斎藤環
November 2008
“ この影だけをあなたは愛してをられる。この影のためにあなたは死なうとなさる。あなたが、絶對に、實在として認めてをられるのはこの影だけなのです! 要するに、あなたがあの女の中に、呼びかけたり、眺めたり、創り出したりしてをられるものは、あなたの精神が客觀化されたこの幻であり、あの女の中に二つに分けられたあなたの魂に他なりません。さう、これがあなたの戀愛なのです。”
—ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』
“——從つて、我々はおのれの眼だけが對象の中に呼びさますもの以外には見ることが出来ないのだ、といふことをどうぞお忘れなく。”
—ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』
“
「化けたい、消えたい、おれは変わりたいんだ。俺は今まで黒子に操られていた山太郎だ。だけど、俺を操っていた黒子ってのは、栗原だったのか?だとすれば、その黒子を操っていたのは誰なんだ?」
「それは、言葉よ」
「じゃあ、その言葉を操っていたのは一体誰なんだ?」
「それは、作者よ。そして、作者を操っていたのは、夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服の煙草の煙よ。そして、その夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服の煙草の煙だのを操っていたのは、時の流れ。時の流れを操っていたのは、糸巻き、歴史。いいえ、操っていたものの一番後にあるものを見ることなんか誰にも出来はしない。
たとえ、一言でも台詞を言った時から、逃れることの出来ない芝居地獄。
終わる事なんかない。どんな芝居でも終わる事なんかない。ただ、出し物が変わるだけ。
さあ、みんな役割を変えましょう。衣装を脱いで出て来て頂戴!
さあ、もう一度劇と劇との変わり目の地獄を見せてやって頂戴!母捨ての芝居の後には、子捨ての芝居、芝居の革命の後には、革命の芝居、嘘の後にあるのは、ほんとではなくて、また別の嘘。という言い方も、また別の嘘の積み重ね。それが劇。それが人生」
” —演劇実験室天井桟敷『邪宗門』
“——全くですね! (と博士は言つた。) その神聖なる常識の前に頭を下げませうよ。世紀の變るごとに常に意見を變へ、その本領たるや、生れつき、霊魂といふ名をさへも憎悪するところにある、その「常識」の前にね。「精神」が標識を定めてそこを歩き廻るやうに通告した道をたどりながら、その「精神」を陵辱しつつ通り過ぎるその「常識」なるものに、《文化人》として、敬意を表しませうかな。幸ひにして「精神」は「牧人」が死や「眠り」の静寂境へと導いてゆく羊の群の啼き聲に無頓着である以上に、「常識」の罵詈訕謗に對して馬耳東風なのです。”
—ヴィリエ・ド・リラダン『トリビュラ・ボノメ』
“こんな風に造られている人々があるのだわ、光明の波のさなかにあってさへ、なほかつ暗澹たるを免れ得ないやうな人々が。それは偶然と仮象とを身にまとつた、鈍重な涜聖的な魂であり、いづれ滅ぶべき官能の墓の中に閉ぢ込められたまま消え去つてゆく魂なのだわ。”
—ヴィリエ・ド・リラダン『トリビュラ・ボノメ』
“ああ! 一體いつになつたら眞實を語る文學者が現われるのか!——實際に起ることを!——誰も彼もがそらで知つていることを!——過去現在未來を通じて永久に街頭で行はれるようなことを! 之を要するに、真面目なことを! かかる文學者にして始めて「大衆」に尊敬される価値がある、蓋しそれこそ「天下萬民の筆」だからである。”
—ヴィリエ・ド・リラダン『トリビュラ・ボノメ』
“日本語の真の主語は「私」とか「あなた」ではなく、いま語られている「話題」そのものである、という説があって、言語を研究している人たちの間ではよく受け入れられているようです。”
—瀬名秀明『デカルトの密室』
“教育とエンターテイメントを区別する人は、そのどちらについても理解していない”
—マーシャル・マクルーハン